奇跡のリンゴの失敗?!
先日図書館で「奇跡のリンゴ」を借りてきました、あまりの面白さにほぼ一日で完読。
映画にもなったこの本から「手づくり&ビジネス」という視点で読み解いてみました。
彼の業績を一言で表現するなら
「これまで人類が誰も成功していない、無農薬、無肥料でのりんご栽培に成功した」
なぜ誰も成功していないのか、それはりんご栽培の歴史が農薬の歴史だからです。
とは言っても「りんごはアダムとイブの時代からあるし、更にはニュートンの万有引力はりんごの木から発想した、そんな時代に農薬なんてない」
実はこれらの時代のりんごというのは今のりんごとはまったく別物で、そのまま果実として食べられるものではなかったそうです。
今のように果物として栽培されるようになったのは19世紀の農薬の発明によるものだそうです。日本には明治維新に輸入され全国で栽培がはじまります、しかしすぐに大規模な病気や害虫の被害が出て殆どの農家がリンゴ栽培を放棄して養蚕などに移行したそうです。
なぜ青森でリンゴ栽培が続けられたか、それは東北では養蚕ができず、冷害で米作も不安定だったからです。
その青森もこれまでに何度も病気や害虫による壊滅的な被害にあっているそうです。
近年は栽培方法の進歩と農薬の進歩により安定した商品作物として青森や長野の特産となっています。
この歴史から分かるようにりんご栽培イコール農薬ありきなのです。
主人公の木村 秋則氏は、元々メカ好きな農家の次男坊で、神奈川に集団就職するも、りんご農家の婿養子として故郷に戻ります、此のときからりんごの無農薬栽培に挑戦し始めます。
当初は「害虫対策など簡単だろう」と甘い見通しで始めたのですが2年、3年と時間が過ぎて「せっかくここまでやったのだからもう少し・・・」とズルズルと続けて、しまいには家族を困窮させ、周りのりんご農家からも相手にされない状況になります。
当初800本あったりんごの木のほぼ半分を枯らしてしまう状況になって漸く、森のどんぐりの木をヒントにリンゴ畑を蘇らせてついに無農薬&無肥料でのリンゴ栽培を成功させます。
ここに至るまでに9年という時間がかかっています。その過程を克明にルポしたのがこの書籍です。
この素晴らしい業績をただ感心していても仕方ないので、私はビジネスの差別化という観点で考え、そしてこの業績達成の過程を批判的に検証することにします。
まず私が最も驚いたのが、彼がりんごの無農薬栽培を始めたと同時に稲作や野菜、他の果物なども同様に無農薬での栽培に挑戦しているのですが、その全てで無農薬栽培を成功させていたことです。
特に稲作ではワンカップ酒の空瓶に稗(ヒエ)を植えて様々条件を与えるという実験を繰り返し、実際の稲作に応用して無農薬にも関わらず農薬使用とほとんど変わらない収穫量を達成しています。さらには無農薬で一番の重労働である草取りが不要の方法まで編み出していたのです。
このことから分かるのは、りんごに拘ったことから収入がなくなってしまったが、他の無農薬作物を商品化することが出来れていればこれほど家族を困窮させることはなかったといえます。
彼のりんごは6年間花が咲かなかった、当然実はならず収穫はゼロです、
実はこれと同じ様な実例があります。近大マグロで有名な、近畿大学水産学部で成功したマグロの完全養殖のケースです。
このケースでは1974年から養殖の研究を始めるも、1979年に卵を生みその後11年間卵を産まないという時期があるのです、この状況ではではほとんど先に進めない。しかしその間も近大水産学部は他の魚の養殖に成功しています、あの有名な高級魚のクエ等です。そして近大はいち早くこれらを商品化しています。
木村氏にもリンゴ以外の成果があったにもかかわらず、世間にプレゼンしなかったことで資金が行き詰まってしまうのです。家族を守るということは、実はやりたいことを続けるためにも必要なことだと気づくべきだった。
そしてもう一つが、りんごの害虫や病気対策に囚われるあまり、りんごが植物であることに気づけなかったことです。
これは彼が、りんごに異常に詳しくなりすぎてしまったことで見えなくなっていたように感じます。
りんごといえども植物、その植物と虫との関係性を森のどんぐりの木を見て初めて気づくのですが、この姿はまさに「木をみて森を見ない」という言葉通りだったのです。
これは私たちもやりがちです、行き詰まったときこそ、基本に立ち返るという姿勢が必要。
そのためには、仲間を作ることも大切。そこでの何気ない会話にヒントが隠れていたりする。
そのためにも作業には遊びの部分を残しておかないとダメだろうし、既成概念を持たない立ち位置が必要だと思い知らされたのです。
いかがでしょうか?